報告 要旨
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1.圭介の日記からみた人間像
  岩崎 鐵志氏(静岡文化芸術大学教授)
 本草学者の常として、書写と備忘の記録類を膨大に残している。伊藤圭介の場合、頗る健やかに九十九歳の長寿に至った事から、その自筆の記録類は得難いものとなっている。それ故に全体像を描くことは至難ではあるが、一斑に言及することは可能であろう。本稿は七十六冊余の日記から数年分の時点の記事を引く、まさに管見である。
 伊藤圭介が尾張藩庁の二君主を頂点とする権力闘争が潜行する時期において渦中に身を晒す事なく過ごし得たのは、その町医師という出自と、最新の学識、慎み深い性格に由来する。近代植物学成立に立ち会う学究生活では、長い名古屋時代をいかに総括したか、日記にみえる人間関係の記事を通して窺うものである。



2.伊藤圭介と動物
  西川 輝昭氏(名古屋大学博物館教授)
 伊藤圭介と動物とのかかわりの一端を、孫の伊藤篤太郎による部分的増補も経て今日に伝わる未刊の稿本類(『魚譜』、『蟲譜』、『動物図譜』など)の初歩的調査の結果から紹介したい。例えば、『魚譜』の「鯛」の項目には、鯛味噌のラベルまで貼り込まれている。このような雑然とした幅の広さは、"ものと人との自然誌"として尽きぬ魅力がある。あるいは、伊勢出身の松浦武四郎が幕末におこなった北海道知床半島の探検で「フレチ」と称する海の動物に出会い、その鑑定を現物(干物)を添えて圭介に依頼したことがある。その回答から、現代につながる和名の問題など、いくつかの論点をとり出して考察を試みたい。



3.圭介の得た対外情報
  土井 康弘氏(東京大学先端科学技術研究センター協力研究員)
 尾張藩御用人支配医師となった弘化4(1847)年頃から、伊藤圭介は日本に接近する西欧列国に対処するため、西洋兵学や海外に関する所謂対外情報を収集し始める。嘉永年間、圭介は長崎から知己を頼って関連情報を直接入手したが、安政元(1854)年3月に異国船渡来の節の筆談役を下命された頃から、藩内で情報収集能力の高い人物に依存するようになる。もっとも開国以後西洋兵学研究を退いた圭介の関心は、新たに対外情報の範疇となった外交関係へと傾く。はからずも文久元(1861)年10月幕府蕃書調所に出役した圭介は、業務とした物産学研究を遂行するため幕末外交関係情報を収集するようになる。



4.シーボルトと圭介
   山口 隆男氏(熊本大学沿岸地域環境科学教育研究センター教授)
  伊藤圭介は医学ではなく、ヨーロッパの植物分類学の知識を求めて1827年に長崎に来た。およそ半年滞在し、シーボルトと親しく接した。シーボルトにとって、ツュンベリーが1784年に刊行した「Flora Japonica」に記されている日本産植物をきちんと把握することは重要であった。圭介との共同研究でその作業が大いに進んだ。シーボルトは他の植物についても教えて貰い、植物標本も多数貰っている。圭介は動物にも詳しかった。シーボルトは各種の動物の和名を教わっている。圭介の「泰西本草名疏」はシーボルトが原稿をチェックしているので、実際には圭介とシーボルトの共著と見なすこともできよう。圭介をシーボルトの門人と考えるのは適当ではない。共同研究者であった。



5.圭介と尾張の洋学
  岸野 俊彦氏(名古屋芸術大学教授)
 伊藤圭介は、尾張藩の西洋式軍制改革にも深くかかわった。尾張藩の奥医師の吉雄常三は、医学・天文・暦学・化学などに、幅広い学識を持っていたが、天保14年に火薬の実験中に爆死した。
 これを継承したのは、尾張藩士の上田仲敏と町医者であった伊藤圭介である。彼らは上田邸で洋学や西洋砲術の研究を行い、圭介は嘉永6年には西洋流大砲を鋳造して藩へ献上もしている。安政6年、上田が江戸尾張藩邸の銃陣師範役として出府した後、圭介は寄合医師となり、上田邸の「洋学所」出仕「惣裁心得」に任命された。こうして圭介は尾張藩の洋学と西洋式軍制改革を担うが、上田の死去と15代藩主茂徳の隠居で藩体制が代わり、この研究は中座した。



6.現代植物学からみた圭介の業績
   大場 秀章氏(東京大学総合研究博物館教授)
 日本での植物学の開始時期を明治時代とする見方が広く行われているが、演者はこれを江戸時代とした。この根拠のひとつとしたのが伊藤圭介の業績である。圭介は来日したシーボルトの指導を受け博物の見方を深めていった。圭介が受けた指導は類推するしかないが、シーボルトを通して、1)博物の体系的理解ならびに2)博物自体を正確に記述・記載することの意義を知ったと思われる。前者については『泰西本草名疏』の上梓がある。後者は長崎遊学後の圭介の活動の随所にその成果を見出すことができる。博物研究での圭介の方法は正に現代植物学がその発端とするところのものにほかならない。

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