伊勢外宮御師 来田新左衛門家について

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加藤弓枝(かとう・ゆみえ)

 名古屋大学附属図書館神宮皇学館文庫は、伊勢外宮御師であった来田(きた)新左衛門家の旧蔵資料を中核とします。御師とは、古くは大社寺に属する御祈祷師のことで、参詣者をその社寺へ誘導し、祈祷や宿泊などの便宜をはかった者をいいます。熊野三山の御師が早くから活躍していましたが、中世後期からは伊勢神宮の御師が代表的な存在となります。なお、御師は「おし」ともいいますが、伊勢では現在でも「おんし」と呼ばれています。

 ここで御師の活動の史的意義について簡略にまとめると、次のようになります。

1:伊勢信仰を全国の様々な階層にまで拡大したこと(宗教的活動)。 2:全国に檀家を持ち、御札や伊勢の土産を配って初穂を集金、また檀家の参詣時に自宅を旅宿として提供したこと(経済的活動)。 3:空間や身分を超えて全国を自由に往来、その間、さまざまな情報や学問・文化を伝播したこと(文化的活動)。

 さて、来田家が御師化したのは、16世紀初頭のことでした。その後いくつかの家に分かれ、新左衛門家はその分家です。御師としての家格は神宮家・三方家に次ぐ年寄家で、平師職の上にありました。安永6(1777)年3月成『外宮師職諸国旦方家数改覚』(皇学館大学史料編纂所編『神宮御師資料―外宮篇四』所収)によれば、来田新左衛門家の檀那には、聖護院宮・近衛・広幡・庭田・徳大寺・広橋・竹屋などの門跡や公家の外、諸国の檀家は、山城国2500軒、摂津国13840軒、讃岐国4800軒など、全22527軒でした。ほぼ中の上クラスの御師といえましょう。

 来田家現当主(15代目)尚親氏の御教示によれば、浦口町(現・伊勢市)の屋敷地はかつて約1800坪あり、神宮文庫の黒門(外宮の御師福島御塩焼大夫の門を移設したもの)と同様の立派な門構えが備わり、壮大な二階建ての屋敷の外に、神楽殿や土蔵もありました。残念ながら第二次大戦の空襲によって屋敷は全焼してしまいましたが、来田家は現在も同じ地に屋敷を構えておられます。なお、来田家蔵書は同家13代目当主で神宮皇学館大学教授であった来田親明氏によって、終戦間近の昭和20年7月、同大学に寄贈移管されました。そのわずか数日後に来田家は焼失、間一髪で蔵書は焼失をまぬがれたわけです。

 幕末までの来田家の歴代を来田尚親氏所蔵の『過去帳(仮題)』一軸によって、簡略に示しておきましょう(…は養子関係)。

 ①延親 天正15(1587)年3月12日没
―②長親 慶長8(1603)年8月20日没
―③与親 正保3(1646)年7月27日没 63歳
―④尹親 寛文13(1673)年6月10日没 57歳
―  満親 寛文9(1669)年5月14日没 20歳
―⑤由親 元禄7(1694)年7月10日没 26歳
―⑥則親 正徳5(1715)年10月27日没 27歳
―⑦有親 明和5(1768)年8月19日没 61歳
―⑧依親 明和8(1771)年11月13日没 27歳
…⑨親正 文化10(1813)年7月28日没 40歳
…⑩展親 慶応元(1865)年7月5日没 61歳
―⑪博親

 旧蔵書より見た場合に、歴代の中で最も注目すべき活動を行ったのが、7代目の有親です。過去帳の注記によれば、童名、亀之助。通称、図書・山城・新左衛門、後に舎人。実名は初め胤親・親岑、後に有親と改めました。文庫蔵書の書写識語より宝暦5(1755)年頃の改名と推定されます(但しその後も時に親岑を使用)。来田家旧蔵書はこの有親による書写本や校合書入本が多数を占めており、その奥書や識語より、青年期より最晩年に至るまで、熱心に学問に取り組んだことが知られます。

 最初の頃は祝詞や神宮関係の資料など、御師としての業務に関連する事柄を学んでいました。29歳の元文元(1736)年頃、京の高名な有職故実家、速水房常に入門、以後はもっぱら有職故実や和歌に熱意を傾けます。また、堂上と交友のあった房常を介して、公家に和歌の入門をも果たしています。その学問への情熱は、終生冷めることがありませんでした。

 こういった学問への傾倒の背景には、2万軒を越す檀家を抱える来田家の莫大な経済力、それから公家の檀家をはじめとする貴人との日常的交流があったはずです。さらに、有職故実への強い関心は、全国よりやってくる参宮人に対し、一種のサービスとして非日常的な世界を構築しようとした意図もあったのではないでしょうか。

 江戸時代にあって、御師は身分や空間を越えて自由に行き来することを日常としたという点で特異な存在でした。そのような境界的な性格が、御師の文化的な活動を複雑な性格をもつものとしたと考えられます。そのような興味深い存在である御師を考える上で、来田家旧蔵書はまたとない貴重な資料群なのです。


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